昭和45年 2月24日 夜の御理解(若先生)

御理解の一節の中にあります、その内容はちょっと忘れましたけどね、ま、こういう意味合いの事なんですけど「師匠が教えてあられることを覚えておって人に伝える事が神へのお礼であり、その事が神も喜ぶことだ」という御理解がありますね。今日は田代佐恵子ちゃんの40日祭だと思うのですけど、今日期せづして皆が口をそろえて言うことが、今日ほどさびしいあのお祭りはなかったというんですよね、私も仕えよってなんかもう本当にさびしかった。丁度あの雨がしとしと降ましてね、丁度今日の天気みたいな感じだなというて、後でお話させて頂いたんですけれども、その寂しさがどこから来たかというとです、やっぱりあの、忘れるっていえばあんまりでしょうけども、あまり気にしなくなるのですね。私は今度の佐恵子さんの色々10日、10日のお祭りを仕へさせて頂いて、新御霊の50日間と言う事の大切さ、私神秘性というか、霊界の不思議さていうもの感じさせて頂いた分けなんですけれども。本当にあのさびしい、やっぱり50日祭までは、なんですねやっぱり身内の方が祖先讃辞なり、(  ?  )なり奏上して、仏教でいいます供養ですね、供養しなければいけないなと思うんですけれども。この忘れると言う事があのいかご無礼かと言う事を、思わせて頂てね、それを感じて思うのですね、例えば神を忘れるとか、み教えを忘れるとかね、覚えてそれを人に伝えると言う事のまた大切さも同時に分かると思うのです。えー、そういう意味合いで私達があの、親先生から日々御理解頂きますことが、頭の中で覚えるという意味合いではないです、今日のはね。体に覚えると言う事なんです。それを伝えると言う事なんですけれども。そういう意味合いで我々が親先生の日々の御理解をいかに忘れておるか、と言う事を痛感いたします。もうこれ程ご無礼な事はないと思うんですけれども。「習おたことを覚えておって、師匠が喜ぶのである」と言う事を分からせて頂いたのですけれども、これは、御霊に限らずですけれども、ま、信心において、せっかく習うた事を忘れる様な事があったんじゃ相済まんと思わせて頂きます。